ミルトン・S・ハーシー(1857~1945)は世界的なお菓子メーカーであるハーシーの創業者だ。同社は1894年創業とかなり歴史は古く、元々キャラメルメーカーの子会社としてミルクチョコレートの製造販売を始めたところからスタートしている。ハーシーのチョコレートはアメリカにおける象徴的な食品と言え、今では世界中でその商品を購入することができる世界最大級の製菓企業(2020.12期売上高約81億USD)である。

今回は、世界最大級の製菓企業ハーシーを作り上げたミルトン・S・ハーシーの生涯を振り返りながら、どのようにして一代でそこまでの企業を作り上げたか、そしてその経営ポリシーにも迫っていく。
お菓子ビジネスでの2度の失敗からの成功
1857年9月13日に生まれたミルトン・S・ハーシーは、ペンシルベニア州ホッカーズビルで育ちます。そこは小さな田舎町だった。両親は農業を営んでいたため、非常に小さいときから農場で家畜に餌をやったり雑用に精を出したりと、家の手伝いをさせられていました。
いくつかの学校で勉強したが(グリーンツリーのビレッジアカデミーという私立の高校もその1つだが、成績はよくなかった)、ハーシーは勉強をあきらめ、ランカスター郡のギャップにあるドイツ語の新聞社の見習いとなる。働き始めるとすぐに、自分には新聞雑誌や出版の才能がないことを思い知る。この新聞社を辞め、ランカスターのジョセフ・H・ロイヤーの店で菓子の見習い職人の仕事を見つけました。
そして、1876年、19歳のとき菓子職人の見習い期間を終え、自分の会社MSハーシー社をフィラデルフィアに設立しました。菓子の卸・小売業を行いましたがうまくいかず、6年後の1882年に倒産してしまいます。その後数年間、ミルトン・ハーシーは菓子製造で身を立てようと国中を旅してまわり、コロラド州のデンバーでキャラメルのつくり方を身につけたりした中で、ニューヨーク市で再度、自分のつくった菓子を街頭で売るビジネスを始めましたがこれも失敗。2度目の失敗します。
それでもめげずに彼は3度目の正直で、成功を収めます。
最初に事業に失敗したペンシルベニア州に戻ってきた彼は、デンバーで学んだキャラメル製造のスキルを活かして事業を立ち上げました。新鮮なミルクをふんだんに使用したことが特徴のキャラメルを製造・販売する会社、ランカスター・キャラメル社を設立したのです。創業当初から、重要視にしていたのは製品の品質で、「すぐれた品質を提供しよう。それがこの世界で最高の広告だ」がそのポリシーです。
ミルトン・ハーシーのキャラメルが菓子の輸入業者の目に止まり、イギリスに持ち込んで売ったことがきっかけになり、事業が軌道に乗り始めたのです。これにより彼は3度目の挑戦によりやっと成功といえる成果をおさめることになります。
1894年には、そのランカスター・キャラメル社の子会社としてハーシー・チョコレート社として創立しました。この年にはハーシーブランド製品として初めて「ハーシー ココア」を発売。そしてこれがハーシーのチョコレートの始まりです。
1900年にはキャラメル事業を売却して新しい事業を探そうとして、競争相手のアメリカンキャラメルからの買収提案に応じ、現金50万ドル+アメリカンキャラメルの株式50万ドル相当でキャラメル事業を売却。その資金を利用して、ハーシーはランカスターの北西約30マイル(50 km)、デリータウンシップの生家近くの未開発の農地1200エーカーを取得しました。そこは酪農地域として知られる肥沃な谷であり、彼はそこで上質なミルクチョコレートを完成させて製造するために必要な大量の新鮮なミルクを手に入れることができました。
チョコレートビジネスの開始
今では想像できないかもしれませんが、当時はチョコレートは一部の人しか口にすることができない高価なものでした。高級品だったミルクチョコレートの可能性に興奮したハーシーは、ミルクチョコレートのレシピを開発して販売し、アメリカ国民に販売することを決意しました。試行錯誤の末、彼はミルクチョコレートのための独自の製法を作成しました。最初のハーシーバーは1900年に製造されました。
1903年、ペンシルベニア州に大規模なチョコレート施設の建設を始めました。この施設で製造されたミルクチョコレートバーが成功となり、それから先同社は急速に成長していきました。ミルトン・ハーシーがチョコレート工場を作り大量生産を始めたことで、誰もがチョコレートを楽しめるようになったのです。
ミルトン・ハーシーの経営ポリシー
この1903年頃からミルトン・ハーシーは、従業員がより良い生活を送れるよう、路面電車、住宅、学校、プール、そして動物園まである理想の街を考え、その設計や建設に携わりました。その街こそが、現在のペンシルバニア州ハーシー市です。
1906年には、ミルトン・ハーシーは、従業員の幸せは会社の成長にも寄与すると考え、従業員とその家族の憩いの場としてハーシー・パークを建設しました。
1909年、ミルトン・ハーシーは、親を亡くした孤児が教育を受け、幸せに暮らせるよう、ミルトン・ハーシー・スクールを設立しました。当時、孤児は社会の負担とみなされ受け入れられていない時代でした。
1918年、ハーシーは会社の支配権を含む資産の大部分をミルトンハーシースクールトラスト基金に譲渡し、工業学校に利益をもたらしました。信託基金はハーシー・カンパニーの議決権の過半数を保有しており、会社の支配を維持することができます。
1929-1939年 常に従業員の幸せを重視していたミルトン・S・ハーシーは、大恐慌のさなかにペンシルベニア州ハーシーで「ビル建築キャンペーン」を展開して600 名を雇用し、ホテル・ハーシー・コミュニティービル、ハーシー・チョコレート本社ビル、ハーシー・アリーナ、ハーシー・スタジアムなどの大規模な建築工事を行いました。
自分の子どもがいなかったミルトン・ハーシーにとって会社やその従業員が子どものような存在だったのかもしれません。このあたりにミルトン・ハーシーの経営に対する考え方が表れています。
ただ、アメリカ全土で急進化した労働運動の余波で、ハーシー社の社員も影響を受け組織化され、労働時間の短縮、賃金アップを会社側に要求するとともに、ミルトンを激しく糾弾、会社と激しい衝突をしました。その結果、会社はアメリカ労働総同盟と協定を結び、従業員は製パン製菓労働組合に加わることになりました。
この一連の動きで最も傷ついたのはミルトン・ハーシーで、自分が財産を投げ打ってまで行ったこれまでの取組みが一瞬にして水泡に帰し、その心の傷は一生癒えなかったようです。
ハーシー社がNo.1のチョコレート会社へ
1907年にハーシーキスが開発され、1908年にはアーモンドを使用したハーシーバーが発売されました。発売当初、この頃のハーシー キスチョコレートは、従業員が一つ一つ手作業でホイルで包んでいました。
1927年 ガールスカウトのハンドブックに「スモア」のレシピが初登場。一度食べると誰もが「some more!(もっと食べたい)」と言うことから、この名前が付いたといわれています。
1928年 「ハーシー チョコレートシロップ」が発売され、家庭で手軽にチョコレートミルクを楽しめるようになり、子どもたちは大喜びしました。
ミルトン・S・ハーシーは1945年10月13日に88歳でハーシー病院で肺炎で亡くなりました。
ハーシー社は合理化を徹底した後発のマーズ社に規模では負けていますが、約81千万USDの売上高を誇る、製菓のみならず食品業界のトッププレイヤーとして引続き業界をリードしています。
(画像参照元:https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000001633.000002360.html)
